幕末の開国事情

第二の開国とも云われる太平洋戦争終結の事情の話題を前回記事にしたので、今回は第一の開国である幕末の開国事情を。
これについては、佐久間氏が以前にブログに書いていた、
真田幸貫の功績がある。 あの記事[2006/03/11]:
   ▲ 「人間の評価」に就いて(1)真田幸貫:[B-28]
に書かれていたのは、1842(天保13)年7月に、幕府がそれまでの外国船打ち払い令1825(文政8)年を改めて、「薪水令」に切替えた件の、歴史的評価について、である。

これにより、当時の中国に大打撃を与えた阿片戦争(1840-42)が日本で再現することは凌いだが、
その「薪水令」から25年目、1868(慶応4)年に
堀直虎の事件、になる。:
   ▲ 「人間の評価」に就いて(5):堀直虎:[B-40]


その間の25年間も、日本が列強の侵略から身を守り
  きるのは、本当に薄氷を踏む危うさであった。
一群の実に有能な人々の働きのお陰で、東洋で
  日本だけは欧米の属国にならずに済んだ。 が、
無事に開国して明治になってからの日本を牛耳った
  薩長派閥政権での歴史教育では、その功労者たちの
  貢献は無視されて、名前や業績を伝えられていない

私が、その功労者の働きの状況を、初めて詳細に
  知ったのは、先日のテレビに依ってであった。
危機的な状況の時代に攘夷を唱えて、佐久間象山、
  吉田松陰らの有能な先覚者を殺害していた連中が
  明治政府になると一転して開国し、その結果得られた
  文明開化の恩恵に与っても、恥じなかった姿は、
  現在の原発騒動と、非常に良く似ている

焚書坑儒は秦の始皇帝やヒットラーの専売ではなくて、
  日本では、幕末にも、3,11以後にも、同様なことが
  行われているのだ。
先日のテレビで私が知ったことを中心に、当時の概要を記す:

     ★ ★ ★ ★ ★

1853(嘉永6)年と、翌1854(7)年に、黒船(ペリー)が
       来日し、 日米和親条約を結んだ。
  横柄なペリーは脅迫的な態度で日本政府(幕府)に
  無理難題を持ちかけた。
この時に、先に国内法を「薪水令」に切替えてあった
  ことと、1848(嘉永元)年のラゴダ号事件の対応が
  適切だったこと、そして、それらを的確に把握、承知
  していた林大学がペリーに応対したことが、
  重要な意味を持った。
隔段な武力で脅しに掛かったペリーも、林の応接で
  その主張を了解し、当初要求の開国でなく、
  和親条約で納得した。 林の功績である。

林大学とペリーとの会談(1854)は、初回の2/10に
  日本は交易拒否、第二回目の2/19に林の説得が
  行われ、3/3に日米和親条約を調印した。

     ★ ★ ★ ★ ★

これにより、1856(安政3)年7/21に
     米国総領事ハリスが下田に到来した。
これに対応した岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、
  林大学の外孫(娘の子)である。
  ハリスと交渉して、1858(安政5)年、日米修好通商条約
  を結び、ロシアのプチャーチンと日露和親条約を結んだ。
岩瀬の才覚がなければ、日本のその後がどうなったか
  分からなかった実例の幾つかが、先日のテレビで
  詳細に説明されていたが、私の知らなかったことが多かった。
素晴らしい人材が、丁度適切な時期に居たものであった。

岩瀬は1848(嘉永2)年に老中主座阿部正弘にその才能
  を見いだされて目付に任じられ、講武所・蕃書調所
  ・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造
  に尽力した。
  その後も外国奉行にまで出世し、1861(文久元)年
  7/11に岩瀬忠震は死去した。  44歳だった。

     ★ ★ ★ ★ ★

小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、1859(安政6)年に目付。
1860(万延元)年、34歳にして日米修好通商条約批准
のため、米艦ポーハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。

1861(文久元)年、ロシア軍艦の対馬占領事件が発生し、
  小栗は、当時外国奉行であったため事件の処理に
  あたったが、幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻った。
1865(慶応元)年、横須賀製鉄所の建設を開始したが、
  規模と建設費用で当時のアジア最大の海軍工廠の
  建設計画であった。

幕府の対薩長政策を巡っての意見相違のため官を辞し
領地に戻ったが、1868(慶応4)年5月27日に
       新政府に斬首された。

後に日本海海戦でロシア艦隊を壊滅させた日本の軍艦
  の多くは小栗の整備した造船所で造ったものであり、
  彼の死去の日付け、5/27は、日本海海戦勝利の日で、
  戦前の日本では「海軍記念日」と呼ばれる祝祭日であった。

     ★ ★ ★ ★ ★

井伊掃部頭直弼が大老に就任したのは1858(安政5)年。
  直弼が独断で日米修好通商条約を結んだので、
  「開国を断行して日本を救った政治家」という評価
  もある。  が、 「攘夷派を弾圧したが,開明論者
  でもなく、西洋嫌いであった」、と厳しい評価もある
         (司馬遼太郎『花神』)。

開国は、阿部正弘の頃からの既定路線であり、水戸や
  薩摩などの雄藩や朝廷への根回し、蕃書調所設立や、
  勝海舟や岩瀬 忠震・大村益次郎など開明派の
  若手人材登用による開国体制の構築が綿密に
  進められていたが、井伊直弼は安政の大獄により
  これらの開国のための計画を意識的に中断・縮小
  しており、その行動は支離滅裂である。

直弼が開国を唱えたり条約に調印したのは、水戸や
  薩摩などの有力諸侯による幕政への介入に対抗
  するための、一時の方策であり、直弼自身は
  攘夷論者であった、とする見方(石井孝)もある。

この見解によれば、安政の大獄による有力諸侯や
  攘夷派の処罰も、直弼が条約締結の裏で進めていた
  攘夷(鎖国への回帰)も、「幕府の権威回復による
  旧体制への回帰」、という路線上にある方針である。
直弼はまた、無勅許調印の責任を自派のはずの
  堀田正睦、松平忠固に着せて両名を閣外に逐いやり、
  尊王攘夷派が活動する騒擾の世を、強権で治安を
  回復しようとした。

1859(安政6)年、孝明天皇の密勅が水戸藩に下された
  ことが直弼の逆鱗に触れ、安政の大獄となった。
  間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の
  摘発を命じ、多数の志士(橋本左内、吉田松陰、
  頼三樹三郎など)や公卿・皇族らを粛清した。
また、上述の岩瀬忠震や、川路聖謨、らの
          有能な吏僚らを左遷した。
  そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中らを
  免職にし、太田資始、間部詮勝も罷免、更に孤立した。

1860年3月24日(安政7年3月3日)、桜田門外の変
  による暗殺が、直弼の強権的な手腕で回復しかけて
  いた幕府権威を衰退させるきっかけとなった、
               という見方がある一方、
その強権的な手腕で、攘夷派のみならず、開国を推し
  進めた開明派官僚まで大量に追放したので、
           幕臣からモラルや人材が失われ、
  幕府滅亡の遠因になった、という見方もある。

(▲開国の歴史、補足:[C-258]、も参照されたい。)

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幕末の、尊王攘夷派(明治政権・薩長)も、開国派
  (徳川幕府・井伊直弼)も、その多くの人達は、
  開国とか攘夷とかの選択が国家の命運を決める
  最重大な判断と考えて、その政策実現のために
       同志を集めて対立したりするのでなく、
  政権の獲得を、政策よりも重要に考えていた点
       では、同一だった

そのため、薩長閥が明治政権を作ったとき、
     政策として攘夷を開国に変えるのには、
     心理的抵抗もなかった。
  20世紀の日本で、原子力をどうするの意見を変える
  のを気楽に行うのも同様である。

そうした中で、真に国の命運を第一に考えていたのは、
  本稿では改めて事績を紹介しなかった勝海舟、
  佐久間象山の他に、上記のような功労者が居た。
  老人の私も知らなかったことの多い、これらの
  功労者の業績を、若い人達は多分知らないであろう。

  歴史教育で教えられなかった、功労者の貢献を見ると、
  原発推進派により、今春3/11まで無視されていた
  一群の人々を連想、せずに居られない。
     ▲日本人と先見性:[B-158]
  などを読むと、結局これが我が国の国民性か
   と思ったりする。

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