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zoom RSS 大学設置認可問題(3)

<<   作成日時 : 2012/11/17 11:55   >>

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田中真紀子の2日の発言は、数十年間の文部大臣達が全く
無頓着であった「教育の理想論」を、よくぞ述べてくれたもの。
  「猿がタイプライターを叩いて遊んでいるうちに、
   シェックスピアの詩を打ち出した」のだとしても、
            その詩は素晴らしい。
その詩の中で、 「大学と学生の数」、だけに絞って、
   此処で見てみよう。

     ★ ★ ★ ★ ★

昭和15(1940)年の中学校(旧制)の進学率が20%
                 だったが、
昭和47(1972)年の大学進学率は20%
                 となり、30年前の中学と並んだ。
昭和20(1945)年当時、全国の大学の数は48
     その学生総定員はおよそ9万人、  だったが、
その後、およそ30年で、大学の数は約20倍
               学生数は約23倍、 になった。 

その様な増加の契機の一つに、昭和25(1950)年の学制
  改革で、大学が4年制になると同時に短期大学の制度
  が設けられて、旧制高校、専門学校、師範学校等が
  全て昇格、吸収されたこともあるが、 それ以上に
その後の文部官僚の思惑で、ベビーブームその他の口実
  を設けては、大学を作り続けたことが大きい。
  {参照:▲ 大学設置認可問題(1):[A-160]}


そのため、昭和50(1975)年には、4年制大学が420
短期大学が513校にもなり、大学生の数は209万人
  (国の総人口の2%)、 進学率38%、となった。

     ★ ★ ★ ★ ★

一つの国の高等教育の普及状況を3段階に分け、
  ●該当年齢層の進学率が15%までをエリート段階
  ●15〜50%をマス段階、●50%以上をユニバーサル段階
            ということにすると、
「伝統的な大学」、が対応できるのは、
          エリート段階まで
、     である。 
米国は昭和50(1975)年にはユニバーサル段階に達していた
  が、豊富な物質資源を持つために、人的資源は全世界から
  供給を受けて、世界の一流国の立場を堅持している。
。 
我が国の教育環境は、その頃は、まだマス段階にあったが、
  行政が機能せずに、共通一次、大学入試センター試験など、
  一連の教育政策によって、劣化が続いた。 
教育が破壊されて行く過程で、多くの有識者、知識人が抗議、
  反論の申し立てを行ったが、それらは洵に空しく、
  現在は完全にユニバーサル段階になった。 
分数の計算も出来なければ、ローマ字を読めない大卒が
  居ても、当然である。

     ★ ★ ★ ★ ★

週刊新潮に連載されていたヤンデンマンの
  「東京情報」は、説得力のある時代批評であり、 
  このテーマについても、何回も取上げていた。
昭和63(1988)年8月25日の「東京情報」で、
          あるスイス人は心配していた。
 「スイスの大学進学率は、一貫して3%のままであり、
  日本のように年々進学率が増加して37.6%にまで来た、
  なんて、理解できない。 
  昭和50年代初めに、日本の大学の数はヨーロッパ全体
  の大学数を上回っていたのだから、今では2倍以上に
  膨れ上がっているのじゃないかな。 
  当然の結果として、学生たちの質は低下するのだが、
  卒業後どこに行くのだろうか」。

これに対して
ヤンデンマンが、にっこり笑って、即座に答えたのが、
  「マクドナルド、セヴン―イレブン、ファミリーマート、
   レッドロブスター・・・・・行くところは、幾らでもあるさ」、
  と言っている。
。 
当時、ヤンデンマンも、これは冗談のつもりで云ったのだろう。 
  が、2012年の現時点では、冗談でも笑い話でもない
       現実社会の姿となり、 それどころか、
  それらの職場さえも、就職困難な買い手市場となっている。

     ★ ★ ★ ★ ★

今回(11/2の時点で)田中文科相が不認可とした3件の
  4年制大学の新設案の関係者は、これまでに注ぎ込んだ
       金が無駄になる、などと文句を言っているが、
  日本の大学教育環境が完全に
  ユニバーサル段階になった現在でも、一旦大学が出来ると、
  其処の学生1人につき、我々一般国民の納付する税金、
  数十万円が注ぎ込まれることを、どう考えているのだろう。 
私の納付する血税が、  分数の計算も出来なければ 、
  ローマ字を読めない大卒を作る、 遊園地もどきの
  大学に、何故むしりとられなければならないのだろう。

私は2日の田中文科相の発言に賛成で、
既存の大学でも廃止する行政措置、もあるべきだ、と思う。 
  そのためには、これも2日に田中文科相が云っていた
  ように、設置審の組織の再検討が必要である。
参照:
  ▲ 大学設置認可問題(1):[A-160][2012/11/4]
  ▲ 大学設置認可問題(2):[A-161][2012/11/10]

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内 容 ニックネーム/日時
無時制の言語 (日本語) 情報交換の欠陥を補うものとして、以心伝心は重宝がられている。だが、信頼性がなく、危険な手段である。 意見は、文章により表される。意味もあれば、矛盾もある。だから、議論の対象になる。 意向は、単語により表される。意味もなければ、矛盾もない。だから、議論の対象にはならない。 議論ができなければ、論文もできない。 論文のできない大学は格付けの順位が高くならない。 このような大学では、哲学博士 (Ph. D.) の育成も難しい。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、...
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2012/11/25 02:38

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